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| 透明なガラスの外側に色ガラスを被せる工程。二重のガラスに模様を刻んで切子が生れる。 |
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| 中央の炉には、様々な色ガラスが溶けている。1600度前後にもなる炉の周囲での仕事。 |
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| グラスの口の部分を滑らかにするため、バーナーで焼く作業。この後、模様を刻む。 |
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| 高温で色をつけたあと、冷却釜にいれて冷やす。ここでガラスの口をまずカットする。 |
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中国東北地方の海の玄関、大連。上海や天津と並ぶ国際貿易港として華やぐ大連は、1898年、帝政ロシアがこの土地を「ダーリニー」と名付け、開発に取りかかったのが街の始まり。1905年、日露戦争後には「大連」と改名されて、多くの日本人が移住した。
南満洲鉄道を敷設、新しい建物や道路を作り、街の建設に取り組んでいた日本人は、大連がガラスの原材料、硅砂の産地であることに着目、この地にガラス工場を建設した。最先端のガラス工場が誕生して以来、大連は中国でも指折りのガラス産業の街となっていく。
当時のガラス工場で作られたのは、色ガラスの彫刻や花瓶、魚や動物などの置き物が中心。華やかな装飾品として、大連の家々を彩った。ごく一部の限られた人のものだったガラスの工芸品は、やがて工場で大量に生産される。普通の暮らし向きの家にもやってくるようになって、ガラスの品々はモダンな時代の息吹を感じさせる新しい装飾として、大連の人々に愛された。切子の技術も当時、日本から伝えられ、実用品というよりは贅沢な品として、贈答などに使われたという。
ガラスの街だけに、会社の創立記念日や、個人の表彰の記念品などにガラス製品を使うことも多く、特別な日や特別な名前を刻んだガラス製品を今も大事にとっている人もいる。
日本人の興したガラス工場は、1950年代に「大連第一ガラス工場」となり、80年代以降はそこで技術を学んだ労働者が民間の工場に移ることも多く、切子の技術などを後輩に伝えている。手先の器用な労働者に恵まれた大連、いまでは切子を日本に逆輸出するだけでなく、ロシアや韓国、ヨーロッパ、アメリカなど世界を相手に製品を輸出している。欧米諸国の市場にあわせ、日本が伝えた繊細な切子が、ダイナミックな模様に変身しているものもあって楽しい。
世界の人を迎え、送り出す港町、大連。この地でガラスと切子の美しさを知る旅人もきっと多いことだろう。 |
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